日記/2008-4-6
最終更新時間:2008年04月06日 20時25分48秒
「生きるための経済学」の「暗黙知」
安冨歩の「生きるための経済学 ― <選択の自由> からの脱却」を読了。なかなか興味深い内容でした。
ただ、「生きるための経済学=ビオ経済学」が具体的にどういうものなのか、明確に提示されないのはいまいち。でも、あんまり具体的に示してしまうと、自らの感覚によるところなく、ただ単に「従来の経済学=ネクロ経済学」か、「生きるための経済学=ビオ経済学」か、いずれかを選ぶだけ、という「選択の自由」の罠にはまっちゃうからできないのかしら、とぼんやり思ったりして。
以下、自分なりのまとめ(終章の最初の方の抜粋に近いですが……)。
- 現代の市場経済学は、物理の根本原理の否定の上に成り立っている
- 効用最大化問題はNP困難
- 模索の過程でのエネルギー損失も要する時間も考慮されない
- なぜ、そんな非科学的な学問が信奉されるのか?
- 現代の市場経済学は、自由の守護神であり、その否定は自由の否定につながるため
- それが守護する自由とは、「選択の自由」
- 選択肢が充分に与えられている状態が「自由」
- その選択には責任が伴う。
- 「選択の自由」は単なる神話にすぎない
- アダムとイブがリンゴを食べることを選択して楽園を追放される、失楽園の神話に対応
- 「選択の自由」は行使不能な自由
- 選択肢は無限にあり、しかもその選択の結果は原理的に予測不能
- まさに「自由の牢獄」
- 神や全体主義への盲従
- 押しつけられた規範と自分自身の感覚との乖離
- 乖離から来る自己嫌悪とそれを覆い隠す自己欺瞞、虚栄
- 真の自由=積極的自由のために必要なのは「創発」
- 生命の持つ生きるためのダイナミクス
- 自分自身の感覚を信じる
- 現代の市場経済学=ネクロ経済学(necrophilia economy)
- 自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化
- 生を志向する経済学=ビオ経済学(biophilia economy)
- 自愛→忠恕→安楽・喜び→自立・自律→積極的自由→創発
- 仁を欲する
「ほほー」と思ったのは、「暗黙知」という言葉に対する世間の誤解について。
「暗黙知」は "tacit knowing" の訳語であり、原語が動名詞であることからもわかるように、「知ること」という過程の名称、つまり、「暗黙に作動する知るという過程」のことであって、「明示化されていない潜在的知識」のことではない、とのこと。
「知」という過程は暗黙の次元のものであり、明示的に書き下しうる「知」などありえない。 ポラニーの思想に従えば、"explicit knowledge"(「明示的知識」「形式的知識」)はありえても、 "explicit knowing"(「明示知」「形式知」)はありえない。
すなわち、「明示知/暗黙知」、もしくは「形式知/暗黙知」という対比は、根本的に間違っているということです。
なるほど。私も誤解してました。
とかいいながら、本当はこの説明をすぐに信じちゃうのではなく、原典に当たるべきなんでしょうねえ。
おっと、これ、翻訳の問題もあるから、当たるべき原典はこっちか。
こんなの絶対読まない(というか、読めない)ですねえ。