日記/2009-8-30
阿耨多羅三藐三菩提
藤岡真の「七つ星の首斬人」を読了。イマイチ。帯で「鬼才が直球の“犯人当て”に挑んだ本格ミステリ」を標榜しながら、その人物像に当てはまる登場人物が少ないため、犯人が早い段階で割れてしまうのはいかがなものか。
それはそれとして。
犯人が殺人を犯す際に必ず呪文を唱えるのだが、それが
阿耨多羅三藐三菩提
というもの。読み方は「あのくたらさんみゃくさんぼだい」。
kotobankから、百科事典マイペディアの解説によると、「阿耨多羅三藐三菩提」とは、
サンスクリットanuttara-samyak-sambodhiの音写。無上正等覚(しょうとうかく)と訳し,仏の悟りの智慧(ちえ)のことで,この上なくすぐれ,平等円満である意。
であるとのこと。
復讐のために殺人を続ける犯人は、この言葉を唱えることで、いったい何を願っていたのか。
今回この文章を書くにあたって調べてみて、初めてその意味を知ったのだが、たとえ意味は知らなくても、この言葉に聞き覚えはあった。
「愛の戦士レインボーマン」で、主人公ヤマトタケシがレインボーマンに変身するときに唱える呪文が、この「阿耨多羅三藐三菩提」である。
太平洋戦争での恨みを晴らすために、被害を受けた諸外国の人々が組織した、日本人皆殺しをたくらむ悪の秘密結社「死ね死ね団」。彼らと闘うレインボーマン=ヤマトタケシは、もともと、聖人君子でもなんでもない、若者らしい悩みを持った、フラフラした青年だった。「インドの山奥で修行して」すさまじい力を手に入れたタケシだったが、死ね死ね団の狡猾非道な作戦に翻弄され、何が正義なのか、何をなすべきなのか、たびたび苦悩することになる。
そんな彼が、この悟りの境地を意味する言葉を唱えることによってレインボーマンに変身するのは、「悟りの境地に達することで、レインボーマンになる」と解釈すべきなのか?
私には、ただ「悟りを得たい!」と叫んでいるだけのように思える。
そもそも「阿耨多羅三藐三菩提」は、般若心経などの経典に登場する言葉である。般若心経といえば、最初の「マカハンニャーハーラーミーターシンギョー」と、最後の「ギャーテーギャーテーハラギャーテー」の部分が印象に残っている(というか、そこしか憶えてない)が、以下を見ると、確かに「阿耨多羅三藐三菩提」も出てくる。
みうらじゅんの「アウトドア般若心経」は、般若心経に使われている漢字を、街角の看板や張り紙から一文字一文字探し出し、写真に収めることで行う、一種の「写経」である。
般若心経を一目見てわかるように、どう考えても町中で目にすることがない漢字だらけであり、文字の収集は困難を極めた。
みうらの著書「アウトドア般若心経」によると、三分の二ほどで行き詰まり、結局ネットで情報を募ることになるのだが、それでも「ある文字は長崎県、ある文字は岐阜県」と「朝一で家を出て、一文字撮ってトンボ帰り。一体、僕はなにをやっているのだろう?」という具合。
なかでも「阿耨多羅三藐三菩提」の「耨」の文字は難しかったらしく、兵庫県尼崎市にある、近松門左衛門の菩提寺である広済寺へ、近松の戒名「阿耨院穆矣日一具足居士」が刻まれた墓石や卒塔婆の写真を撮りに行く模様が、「タモリ倶楽部『アウトドア般若心経読経上映会』」で、わざわざ放映された。
以下、前掲書のあとがきからの引用。
その間(文字を収集している間)も僕は自分の都合で人を傷つけていました。「でも、そんなこと言うけど―」、自分かわいさの自己防衛に何の意味があるのでしょう。
時期から考えて、「自分の都合で人を傷つけ」とは、自身の不倫離婚騒動を指すものと思われる。
僕は般若心経の真髄を知ることによって、聖人にでもなれると勘違いしていたようです。
悟りの呪文を「写経」し終えても、なお悩みは深い。
以上、推理小説の中で目にした「阿耨多羅三藐三菩提」という言葉から広がる、まとまりのない連想でした。