日比野と卑弥呼の「悲恋」

最終更新時間:2010年10月03日 03時05分54秒

 本橋信宏「新・AV時代 悩ましき人々の群れ」を読了。
 タイトルからも、また帯の表紙側にある文章の最後に「ノンフィクションノベルスの金字塔、ここに堂々完結!」とあることからも、この本が「裏本時代」「AV時代 村西とおるとその時代」に続く、三部作の掉尾と位置づけられていることがわかる。前前作、前作の主人公はやはり「村西とおる」その人だったが、今作は多くの人々の群像劇と呼べるものとなっており、帯の裏表紙側には、以下のように「悩ましき人々」の名前が列挙されている。

この「悩ましき人々」を見よ!
テリー伊藤は、北朝鮮に向かう飛行機の中で、物思いにふける。「安売王」佐藤太治会長は、セルビデオによる流通革命をめざす。高橋がなりはソフト・オン・デマンドを起ち上げ、一大AV王国を建設する。村西とおるの流浪。そして感動の子育て! 代々木忠との対峙と和解。樹まり子、飯島愛、黒木香、卑弥呼、乃木真梨子……時代を象徴するAV女優の百花繚乱!

 上記で「時代を象徴するAV女優」として名前が挙がっている、その一人が「卑弥呼」である。
 以下、第三章「苦しいのはお前だけじゃない」から引用する。

 卑弥呼は、私立女子校に在学中からモデルをめざし、ミス日本東京代表にも選ばれるほどのスタイルと美貌に恵まれた十八歳で、高校を卒業すると、本来ならそのまま付属の女子大にあがれるところ成績が足りなかったために、予備校で浪人生活を送っていた。村西監督に高校生の頃からしきりにAV出演を勧められ、高校を卒業するとオーストラリアやハワイ、ギリシャに写真集撮影の旅行に招かれ、一流モデルの気分を堪能すると、あとは札束攻勢を受けた。
 予備校生のままAVデビューを果たした。
 百六十六センチの卑弥呼がピンヒールを履くと、男たちより頭一つ分高くなり、ハイヒールがまたよく似合った。

 
 さて、帯で名前が挙げられている10人の中には、本書の主要登場人物の一人の名前が入っていない。
 その男の名は日比野正明。
 高校卒業後、地元に近い名古屋の商事会社に就職したものの、倉庫でのきつい肉体労働と学歴の壁に嫌気がさしていた彼は、週刊プレイボーイを見ていて胸に沸き起こった「水着アイドルとつきあう」という夢を実現するため上京する。カメラマンの助手からAVの道へと進んだ彼は、村西監督の右腕として周囲からも一目置かれるようになる。村西の理不尽な鉄拳制裁にも耐え、「日比野だけは、地球が壊れようとも、村西とおるのもとで献身的に尽くし、命を潰えるだろう」と思われていた男。
 この男の激しい片思いの相手が、卑弥呼である。
 以下、第四章「愛は不条理ゆえに悲劇と化す」から。

 恋もした。
 専属女優だった卑弥呼に夢中になった。
 仕事ばかりで金を使う暇もなく、貯金残高が増えるばかりだったので、数百万円もする毛皮をプレゼントしたり、日比野にとっては婚約指輪のつもりのリングも贈呈した。
 女王様然とした卑弥呼に、精神的マゾヒズムの日比野は虜となった。
 卑弥呼は銀座のディスコで働く黒服に熱を上げていた。
 社屋でいつものように撮ってきたテープを編集作業していると、どうしても卑弥呼のことが気になる。
 スタッフから、卑弥呼が銀座の黒服に逢いに店に行く予定らしいと聞くと、片思いの炎が燃え上がり、スタッフの真新しいチェイサーを強引に借りて一路銀座へと走らせた。
 しばらく店の前で張っていると、卑弥呼が黒服とともにドアを開けてタクシーに乗り込んだ。
 静かにチェイサーを滑らせる。
 タクシーの中で二人は睦み合い、互いの頬にキスをしていた。
 そのうち銀座の一方通行に入り、タクシーがスピードをあげた。
 日比野も負けることなく追いかける。
 客待ちのタクシーで渋滞する道に侵入してしまい、日比野は身動きがとれなくなった。
 妄想が膨らむ。いまごろ、卑弥呼と黒服は……。
 チェイサーのステアリングを握り、日比野はタクシーで渋滞する一方通行の道を強行突破しようとした。車一台ぎりぎり通れるかどうかの狭い幅を、日比野は強引に走らせていく。
 客待ちの運転手が悲鳴を上げ、罵声を浴びせる。
 チェイサーの横っ腹がタクシーのボディとこすれ、不快な金属音をあたりにまき散らす。
 日比野は追跡者と化した。
 二時間後、廃車寸前になったチェイサーはダイヤモンド映像に到着し、持ち主が抗議すると、日比野は、おれは勇気があるんだ、おれは勇気があるんだと意味不明の言葉を何度もつぶやくのだった。

 そんな頃、我が世の春を謳歌していたダイヤモンド映像の勢いにも陰りが見え初めかたと思うと、村西の放漫経営のためにあっという間に借金がふくらみ、会社はその日の金にも困るようになる。
 一方、卑弥呼には、主演女優クラスで高くても一本百万円が相場のこの頃、一本五百万円という破格のギャラが支払われていた。しかも、プロダクションが介在せず、それがそのまま本人の収入となっていたため、いくら散財してもまだ銀行口座には金がうなっていた。
 部下である日比野からさえ借金していた村西は、卑弥呼のこの金に目をつける。
 以下、第三章から引用。

 卑弥呼が収入をどうやって税務署に申告するか、高額ゆえに戸惑っていたときに、村西監督が税対策としていったん会社にもどしてうまく処理すると、卑弥呼に話した。
 貯まっていたギャラ三千万円が村西監督のもとにいったんもどされたのだが、いつまでたっても卑弥呼のもとに返ってこない。
 過酷な返済に追われていれば、親の金だろうが女房の金だろうが、誰の金だろうが、目の前にある現金は、砂漠をさまよう人間にとってのコップの一杯の水にも等しい。
 卑弥呼の三千万円が消えてしまった。
 卑弥呼が窮乏を訴えたのは、梨元勝だった。
「シビれちゃうよねえ。朝起きたら、梨元勝と卑弥呼がテレビに出て、さめざめと泣きながら、金返して、だから。こっちで税務署に納税するからって言ってるのに」
 魔法が解けたかのように、金と女は村西とおるの前から蒸発していった。

 この三千万円ギャラ未払い(詐取とも言う)事件については、永沢光雄「AV女優」に収録されている卑弥呼のインタビューでも言及されている。

 彼女の口から語られる事件の経緯は、以下のような「悲劇」となっている(初出は雑誌「AVいだてん情報」1994年1月号)。

 卑弥呼はつらかった。
 大好きだった祖母が倒れたのだ。病院に担ぎ込まれた時はすでに脳死状態にあり危篤だった。
 報せを受け、卑弥呼は病院に駆けつけた。静かに眠っているおばあちゃんの顔を見ると、涙がボロボロと出てきた。おばあちゃんにとって卑弥呼は初孫だった。とても可愛がられた。卑弥呼が何をしても、おばあちゃんだけは叱らずにニコニコと笑って見守ってくれたものだ。
 卑弥呼はすべての仕事をキャンセルして病院に泊まり込み、物言わぬ祖母の看病をすることにした。卑弥呼の父親は、実の母親の脳死という現実を直視することに耐えきれず、病院に「もう死なせてくれ」と言おうとしたが、卑弥呼が猛反対して思いとどまらせた。
 その頃、卑弥呼にはつき合っている男がいた。ディスコの店員だった。男性にはつい一途になってしまう卑弥呼は、男に惚れ込んでしまった。ほとんど半同棲のような生活を送り、仕事の時以外はいつも男と一緒にいた。そんなに好きな男とも会わない日が長く続いた。
 ある日、病院に男から卑弥呼に電話があった。会いたいから俺の部屋に来い、と男は言った。悪いけどおばあちゃんのそばを離れることはできない、と卑弥呼は答えた。すると男が、
 「フン。そんな明日にでも死ぬような人間と俺とどっちが大事なんだ!」
 と受話器の向こうで叫んだ。
 卑弥呼は愕然とした。まだ男は何かしゃべっていたが、卑弥呼の耳には何も届かなかった。
 「さよなら……」
 小さくつぶやいて卑弥呼は受話器を置いた。
 病室に戻り、卑弥呼は眠っているおばあちゃんに話しかけた。
 「おばあちゃん。あのね、わたしのつき合ってた男って、最低の男だったの。あんな男を好きになるなんて、わたしがバカだったんだよねえ。ごめんね、おばあちゃん」
 そのとき、おばあちゃんの顔がかすかにニコッと微笑んだような気がした。それはまるで「大丈夫だよ。お前はまだ若いんだからこれからじゃないか。いい勉強をしたね」と言ってるようだった。卑弥呼は痩せ細ったおばあちゃんの胸に顔をうずめ、泣いた。
 その一週間後、おばあちゃんは眠ったまま息をひきとった。
 葬式の翌日、卑弥呼は所属しているビデオ会社の社屋に足を向けた。そして卑弥呼は仕事をキャンセルしてしまったことを社長でもある監督に詫びた。監督は、「気にするな。それより大変だったなあ。気を落とすなと言うのは無理だろうが、早く元気になりなさいね」と言ってくれた。恋人と祖母を同時に失った卑弥呼の胸にその言葉は過剰に暖かく滲み入った。
 「わたしのことを心配してくれる人が、まだこの世にいるんだわ……」
 ところで、と監督は言葉を続けた。
 「卑弥呼は○○銀行にギャラを貯金してるんだろ?」
 「ハイ。税金を取られないようにしてくれると言われたんで」
 その時、AVで稼いだ卑弥呼の貯金は三千万円あった。他にまだ会社から支払われていないギャラが二千四百万。
 監督の話は要約するとこうだった。あの銀行に預けていても税金対策はしてくれない。ガバッと税金を取られてしまう。そうならないための方法が一つある。三千万円を会社に寄付すると言って、貯金を会社の口座に移せ。そうすれば一週間後に現金でお前に渡す。それをいくつかにわけて貯金すれば税金は取られない。
 理屈はよく分からなかったが、税金を取られるという言葉が卑弥呼の頭を殴りつけた。これ以上、自分の大事なものをとられてたまるものか。あの三千万円はこれからわたしが生きていく上で、絶対に必要なものだ。一円たりとも取られるものか。卑弥呼は監督の言葉にうなずき、言われた通りにした。こんなに自分のことを心配してくれる人が裏切るわけがない。
 だが、一週間後、三千万円は戻ってこなかった。一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月だっても、戻ってこなかった。
 卑弥呼はつらかった。去年のことである。卑弥呼は二十一歳だった。

 そんな時、大好きな卑弥呼のために、日比野が動く。
 以下、ふたたび「新・AV時代 悩ましき人々の群れ」第四章から引用。

 そんな日比野だったが、卑弥呼が村西監督とのあいだでいったん預けた三千万円の大金をなかなか返してもらえなくてもめていたころ、一度だけ、仕事抜きで体を重ねたときがあった。
 献身的に尽くす日比野に一度くらいはお礼をしようという卑弥呼の軽い気持ちだったと言ったら、日比野に酷だろうか。
「おれ、卑弥呼のことが本当に好きなんだよ。卑弥呼もおれのことが好きだよ。それは間違いないよ」
 日比野は、クリスタル映像にかけあい、卑弥呼の出演料一本五百万円という破格の契約を結び、引退する前に失われた金額を補填するだけのギャラの仕事をとってきたのだった。
 何も知らない外野席から、日比野は卑弥呼を利用してコーディネイト料をもらって稼いだ、と噂されたが、恋の炎に身を焦がしている日比野は金など眼中になく、まったくの無報酬で六本契約にこぎつけたのだった。

 この時の日比野の行動と心情は、本書の姉妹編とでも言うべき「エロ職人ヒビヤンの日々涙滴 AV監督・日比野正明の生活と信条」に詳しい。

 以下、同書第5章「卑弥呼との『悲恋物語』」から引用する。

 それに日比やんにとって夢のようだったのは、村西監督のギャラ未返却騒動に粉骨砕身してなんとかギャラをとりもどそうとしてくれる日比やんに、卑弥呼も徐々に好意を抱いてきたのか、一度だけホテルで男女の契りを結んだのだった。
 それよりも前に、卑弥呼とは『女の生き方教えます』で1回だけ、男女の関係になっていたが、あれはあくまでも仕事の上であった。
 ダイヤモンド映像を退社した直後の1992年7月、『ビデオ・ザ・ワールド』で日比やんがインタビューを受けた。
 聞き手は私と仕事場をおなじくしていた岩尾悟志という元映画青年だ。
 このインタビューで日比やんはせつせつと卑弥呼への恋情を語っている。

 <6年ぶりにプライベートでSEXをしましたよ。相手は卑弥呼。
 もちろん俺、堅いから公私混同はしないよ。ずっと卑弥呼が好きだったんだけど、監督と女優という立場がある以上無理だからそんな感情を抑えていたんだよね。
 ところが彼女が20本で女優を辞めて、俺もダイヤモンド映像を退社したから、彼女に言ったんだよ。俺、単純だから思った通りの言葉で、「つきあおう」って。
 卑弥呼とのプライベートでのSEXは緊張したよ。撮影じゃなかったから女の子の手を握るだけでドキドキするくらいだからね。
 俺、卑弥呼のことが本当に好きなんだよ。卑弥呼も俺のことが好きだよ。それは間違いないよ。>
 村西監督にもどしたギャラ3千万円分はとうとうもどってこなかった。
 噂を聞きつけた週刊ポストとワイドショーの梨元勝が卑弥呼に降ってわいたスキャンダルを報道すると、元AV女優は一躍時の人になってしまった。
 日比やんは卑弥呼の窮状をなんとかしようと思い悩んでいた。
 そこにクリスタル映像から「卑弥呼なら6本契約してもいい」という話があった。
 日比やんにしては悩ましい話ではあった。
 出演料1本500万円6本契約で合計3千万円。
 村西監督にもどして返ってこない額とおなじだ。
 日比やんは悩んだ。
 悩んだ末に卑弥呼に話してみた。
 すると、意外なことに卑弥呼はこの話を受け入れたのであった。
 1993年夏、卑弥呼はAVに復帰した。

 雑誌のインタビューで卑弥呼と関係を持ったことを告白し「俺、卑弥呼のことが本当に好きなんだよ。卑弥呼も俺のことが好きだよ。それは間違いないよ」と語る日比野だが、本橋に言わせればそれは「献身的に尽くす日比野に一度くらいはお礼をしようという卑弥呼の軽い気持ちだった」に過ぎない。
 そして、本橋は正しかった。
 下記引用は、三たび「新・AV時代 悩ましき人々の群れ」の第四章から。

「日比野さん。明日午後、おうちにいる?」
 卑弥呼からだった。
「いるとも」
「お話ししたいことがあるの。必ずいてね」
「いるよ」
 やっと卑弥呼はおれのことをわかって、プロポーズを受け入れてくれるのだろう。
 恋の炎は日比野の全身を焼き尽くそうとしていた。
 振り回されれば振り回されるほど、恋の炎は燃えさかる。
 障害物が高いほど、恋は燃える。
 わがままで男を利用するだけの存在としか見ない女がいる。
 そんな女がどうしようもなく好きという男がいる。
 そしてついに日比野の人生最大の夢が叶う瞬間がやってきたのだ。
 水着アイドルと恋人になるよりもはるかに素晴らしい結末、卑弥呼とゴールインするのだ。
 街を歩けば男たちが振り返るほどのスタイルの良さ、神秘的な長い黒髪、男を惑わす媚態的な微笑み。挑発的に突き出た胸の膨らみ。
 すべてが明日、おれの物になるんだ。
 翌日。
 日比野の暮らす山手通り沿いにある池袋の古びたビルの一室のチャイムが鳴った。
 日比野はチャイムの響きが境界のチャペルの鐘の音に聞こえた。
 ドアを開けると、卑弥呼が黒いスーツを着て立っている。
 婚約を承諾するのだから、こんなフォーマルなスーツを着てるんだ。
 それにしても、黒のスーツがよく似合っている。
 日比野はあらためて卑弥呼無しでは生きていけないと思った。
「日比野さん。お話が……」
「うん」
「実は……わたし……」
「うん。わかってるよ」
「違うの。違うのよ」
「うん?」
「日比野さん。ごめんなさい……」
「うん?」
「……紹介します」
「うん?」
 卑弥呼の後ろに控えている長身の青年が初めて視界に飛び込んできた。
「彼女が色々お世話になりました。本来なら僕が彼女の相談にのってやらなきゃいけなかったのに、何もできないことが悔しかった……。本当に日比野さんには感謝しています」
 男は卑弥呼が初めて体を重ねた初恋の青年だった。
 地方銀行に勤務するサラリーマンだった。
 男の給料だけでやっていける卑弥呼ではない。夫の稼ぎが足りなくても生活レベルを下げない暮らしを送るために、日比野に六本契約をとってきてもらい、三千万円を手に入れたので、初恋の男と結婚することに踏ん切りがついたのだった。
 日比野に用は無くなった。
 尽くしすぎる男はかえって女にとって重荷に感じられるものだ。
 卑弥呼は日比野にあらためて礼を述べた。
 日比野は最後の気力を振り絞って祝福の言葉を贈った。
「AV女優が引退したら、一文無しになってるか、つまらない男とくっついてたりするもんだけど、卑弥呼は初恋の男とめでたく結ばれたんだから、めでたしめでたし」

 愛する女に未払いのギャラを補填してやったつもりが、別の男との結婚資金を用立ててやっていたという、笑い話のような悲劇。
 セックスを仕事にしている男の、底抜けの純情ぶりにも心を打たれる。

 なお、「新・AV時代 悩ましき人々の群れ」では、卑弥呼に見事にフラれた後、日比野は一週間自室にこもり、飲まず食わずで泣き明かしたことになっているが、2004年にすでに出版されていた「エロ職人ヒビヤンの日々涙滴 AV監督・日比野正明の生活と信条」では、その日数は「2日」となっている。
 他にも、中古のチェイサーが新車になってたりもするのだが、まあ、帯にも「ノンフィクションノベルス」とあることだし、多少の脚色はいいでしょう。
 

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